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歳月に磨き抜かれた民謡の王者(北海道 江差追分)

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北海道渡島半島の南端白神岬。海峡を隔てて、本州北端の津軽半島竜飛崎までは、約19km。三つの潮流がひしめく津軽海峡は、航行の難所とされてきましたが、人はそれでも、海を越えました。 渡島半島の町江差は、江戸の頃、ニシン漁の根拠地として栄え、春先2〜3カ月の漁が、「一起こし千両」と言われました。漁期には、ヤンシュウと呼ばれた出稼ぎ人や商人、船乗り、ニシン成金目当ての遊芸人が、山をなして押し寄せ、「江差の5月は江戸にもない」と言われる賑わいをみせました。それらの人々が持ち込んだ唄の一つが、『江差追分』へと育っていきます。  ♪(本唄)鴎の なく音に ふと目を さまし   あれが 蝦夷地の 山かいな 『江差追分』の本唄は、浅間山麓の追分宿で唄われていた馬子唄が新潟に入り、日本海を北上して北海道に入ったものと言われます。この本唄に朝鮮の「ペンノレ」と同系の艪漕ぎ唄「エンヤラヤ」が、合の手としてつけられ、唄は次第に座敷唄の形をとっていきました。 明治に入ると、平野源三郎が、尺八の伴奏でこの唄を唄い出し、その格調の高さが注目されて、「正調」と名づけられました。やがて、唄は舞台でも唄われるようになり、合の手は前唄という形になって、これに、送り・後唄がついて、今の『江差追分』スタイルが完成します。長い年月の間、実に多くの人々が、この唄を練り上げてきたわけです。 江差町では、毎年9月第3土曜、日曜に、この唄の全国大会が開かれます。ニシンの漁場は北へ移り、江差は、ニシンではなく「追分」の中心地となって、唄は磨きに磨かれました。 「追分」が越えてきた海峡は今、全長54km弱の青函トンネルで結ばれ、江差もまた、唄と共に明日を目指しているかのようです。

民謡のある風景 記事一覧

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●北海道 江差追分 歳月に磨き抜かれた民謡の王者 北海道渡島半島の南端白神岬。海峡を隔てて、本州北端の津軽半島竜飛崎までは、約19km。三つの潮流がひしめく津軽海峡は、航行の難所とされてきましたが、人はそれでも、海を越えました。→ つづきを読む ●青森県 十三の砂山 人の興亡しのばせる哀愁 青森県五所川原市十三(じゅうさん)。太宰治が「人に捨てられた孤独の水たまり」と言った十三湖をまたいで、十三大橋がかかります。橋は、6年の歳月を費やして1979(昭和54)年に完成したもので、全長234m。→ つづきを読む ●秋田県 秋田音頭 見事な雪の郷土の地口精神 日本海に面した秋田県は、佐竹20万石の昔から、冬は雪におおわれ、陽の射す日は数えるほどしかありません。 冬の間、家に閉じこもることを余儀なくされると、炉端の話に花が咲き、艶笑謂や、ユーモラスな地口がもてはやされるようになるのかもしれません。→ つづきを読む ●岩手県 南部牛追唄 北方風土の年輪刻んだ名歌 北は厳寒の最中、雪におおわれる季節。盛岡辺りでは、1月や2月の平均気温が氷点下に下がります。寒いのは人間だけではありません。南部駒や牛たちもこの寒さに耐えます。 → つづきを読む ●宮城県 さんさ時雨 東北に根付いた祝い唄のこころ 青葉城は、仙台・伊達62万石のシンボルでしたが、今は城跡が残るのみとなっています。本丸は明治4〜5年に取り払われ、15年には二の丸に落電、大手門を残して、伊達家累代の建物がことごとく焼失しました。 → つづきを読む ●山形県 花笠踊り 力集めて創り上げた東北の唄 南の『阿波踊り』に対する、北の踊りが、『花笠踊り』です。この踊りは、戦後に急成長したもので、山形市を中心に尾花沢市や大石田町で、夏のビッグイベントに数えられるまでになりました。 → つづきを読む ●福島県 会津磐梯山 会津の酒どころに伝わる熱狂踊り 福島県会津地方は銘酒の産地、つまりは水よく、米よく、大気澄んだ土地柄。その大地に、誠にどっしりとそびえているのが、磐梯山です。山容は穏やかですが、1888(明治21)年大爆発を起こし、北方に開くU字型の爆裂火口が出来ました。 → つづきを読む ●茨城県 磯節 潮風に三味の音流れる水戸三浜 栃木の北に発した那珂川は、茨城へ出て...

人の興亡しのばせる哀愁(青森県 十三の砂山)

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青森県五所川原市十三(じゅうさん)。太宰治が「人に捨てられた孤独の水たまり」と言った十三湖をまたいで、十三大橋がかかります。橋は、6年の歳月を費やして1979(昭和54)年に完成したもので、全長234m。コンクリートの中にピアノ線を組み込んだ特殊な工法で造られていて、その橋のたもとに「十三(とさ)の砂山碑」が建っています。  ♪十三の砂山ナーヤーエ 米ならよかろナ   西の弁財衆にゃエー ただ積ましょ ただ積ましょ   弁財衆にゃナーヤーエ 弁財衆にゃー 西のナー   西の弁財衆にゃエー ただ積ましょ ただ積ましょ 十三(とさ)は、鎌倉時代に全国七湊の一つに数えられていました。当時、この地は津軽・安東氏が支配し、十三湊は安東水軍の根拠地として栄え、諸国の船が出入りしていたといいます。 南北朝時代の1341年、この湊を大津波が襲い、にぎわいを一気に奪い去りましたが、その後、日本海・西回り航路が開かれると、上方の綿布、塩、陶磁器を積んだ北前船が入り、十三からは津軽の米と木材が積み出されていきました。 北前船は、上方の特産品をもたらしただけではなく、弁財衆と呼ばれた船乗りたちによって、舟唄もまた運ばれてきました。『十三の砂山』は、そのようにして伝えられた舟唄『酒田節』の名残だといいます。地元では、舟唄が盆踊り唄に変わり、上の音頭と下の音頭の掛け合いの形で唄われます。 現在、広く唄われている曲調は、地元の民謡研究家で唄い手でもあった成田雲竹が編曲したもので、三味線伴奏譜は高橋竹山が工夫し、1951(昭和26)年、全国郷土芸能大会で披露されて評判となりました。 地元の唄は、この雲竹調とはかなり異なり、哀愁の色あいが濃くなっています。十三湖畔で聞くと、なぜか無性に人恋しくなるのも、土地の興亡の歴史が背景にあるからなのかもしれません。

見事な雪の郷土の地口精神(秋田県 秋田音頭)

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日本海に面した秋田県は、佐竹20万石の昔から、冬は雪におおわれ、陽の射す日は数えるほどしかありません。 冬の間、家に閉じこもることを余儀なくされると、炉端の話に花が咲き、艶笑謂や、ユーモラスな地口がもてはやされるようになるのかもしれません。「民謡でない民謡」と言われる『秋田音頭』は、そのような秋田が生んだ傑作の一つです。  ♪ヤートーセー ヨイヤナ ア キタカサッサ   トコ ドッコイ ホラ ドッコイナ ホラ   いずれこれより御免こうむり 音頭の無駄を言う   アー ソレソレ   お気に障りもあろうけれども さっさと出しかける   ア キタカサッサ   トコ ドッコイ ドッコイナ 『秋田音頭』は、地口音頭とも言われます。1663(寛文3)年)、徳川4代将軍家綱の頃、佐竹藩主義隆が、手踊りを見たいと言い出したのがきっかけで、柔術の型を取り入れた踊りが考案され、その時に唄われたのが、『秋田音頭』だといいます。 何しろ、地口が主体の唄だから、節らしい節はありません。これに三味、笛、太鼓、摺り鉦が加わって、陽気にはやし立てて座を盛り上げます。「秋田名物八森鱒 男鹿では男鹿ぶりコ」の文句が有名ですが、こんなのもあります。  「お前たち お前たち 踊りコ見るたて あんまり口開ぐな   今だはええども 春先などだば 雀コ巣コかける」 軽く椰楡して、ユーモラスに締めくくる辺りに、秋田弁の特徴がにじみ出ています。 青森県出身のタレント伊奈かっぺいは、『青森音頭』を歌うという前口上で、『秋田音頭』を歌い、歌詞の最後に「それは隣の県だべさ」とつけて、大いに笑わせていました。その地口精神が、この唄の身上だといえるでしょう。